本棚にあった村上春樹の「パン屋再襲撃」を久々に読みました。20年ぶりくらいでしょうか。大学生のころ読んだ村上春樹の小説に登場する「僕」に、なんていけすかない嫌なやつなんだと思いつつも、心の奥ではむっちゃ憧れていました。自分も大人になったらこんなクールでドライでモテモテな「僕」になりたいなぁと思ったものですが、今のいささかくたびれてしまった自分を知ったらちょっとがっかりするだろうな。「やれやれ。」(←すわ!ハルキスト!)

なにはともあれ、そんな学生時代に夢中になった胸アツ小説を再読です。

当時から20、歳をとった自分は一体何を感じるのでしょうか?
主人公の「僕」よりも、もはや年上になってしまったであろう今の自分は一体何を思うのでしょうか?

結論からいうと「なんて嫌なやつなんだ、と思いつつも心の中でむっちゃ憧れる~」と思いました。
20歳の自分も、40歳の自分もやっぱり「僕」に憧れるのかよ~。ぜんぜん成長してないじゃんよ~?とちょっとがっかりしつつも、自分の変わらぬ若さ故かなと思い直すことにしました。

でも20歳の時には感じなかったことも一つあります。
それは構造物としての村上春樹小説の面白さです。

-過去から現在への時間軸
-社会的な環境変化
-パン屋での対価
-マクドナルドという資本主義
-空腹の比喩としての海底火山

こんなに意図的に計算された構造物だったんだ~ということに改めて気づくことになり、驚愕しています。
今風の言葉でいうと、コミュニケーションをデザインしてるとでも言いましょうか。
一文一文、すべての(といっても過言ではないほど)文章に、こう読ませたいという意図を感じさせるのです。

この小説は、主人公である「僕」が社会の中で生きていくことで失っていく『何か』を取り戻す物語です。
ただその『何か』は、一言で表現できるものではありません。端的な言葉で伝えられないからこそ物語で伝えようとしているのだと思います。言語の限界の先にある表現物、それが小説の存在意義なんだと改めて再認識することになりました。

そのうまく言えないけども『何か』が、確かにそこにある。
20年前の自分がこの物語を読むことで触れることのできたその『何か』に、20年後の自分も確かに触れることができました。

そんな20年越しの「パン屋再襲撃」の再襲撃でありました。