四十男の独り言

――今日、写真は死んだ。もしかすると昨日かもしれない。

写真美術館が2年ぶりにリニューアルされた。リニューアルオープンということで、どれだけ変わったのかと思いきやちょっと小奇麗でレイアウトが変わった程度でそんなに変わった感じもしない。その分「TOP MUSEUM」の愛称変更に伴う新VIがとても目につく。もう「写美(シャビ)」なんて呼ぶ人がいなくなっちゃうんだと思うとそれはそれで少し寂しい。

オープニングアクトはもちろん杉本博司だ。日本を代表する写真家といえば間違いなくこの人だ。写真家という範疇でくくるにはスケールが大きすぎるが、彼を差し置いてこの舞台にふさわしい人物はいないだろう。

三部構成となる最初の展示は<今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない>シリーズだ。写真美術館のリニューアルオープンの最初の展示が写真メインじゃないのかい!と面を食らったのはぼくだけではないはずだ。それにしても声高だ。もともと杉本博司の作品は、それがたとえ写真一枚であってもとても声高だった。その杉本があえて文字というツールを作品の中に持ち込んだ。さまざまな架空(?)の人物になりきり世界の終りについての考察を独白する。杉本博司はさながらイタコのようでもある。
芸術家の仕事とは、人類が後世に伝えるべき大切なことを作品を通して残すことであるとぼくは考える。ある意味イタコと同じだ。

三部構成の二つ目は、<廃墟劇場>シリーズだ。<劇場>シリーズといえば杉本博司の代名詞といえる写真作品である。劇場に映画を投影しその映画一本分の光量で長時間露光して仕上げる。時間を写真作品の中に閉じ込めるというのがコンセプトだ。それを本シリーズでは廃墟となった劇場で行う。暗がりの中で輝くスクリーンの背景に目を凝らすと、廃墟が浮かび上がる。廃墟はもちろん資本主義の成れの果てとしての象徴だろう。そして作品には平家物語などの諸行無常な古典の文章が添えられる。やっぱりここでも世界の終わりに対してとても声高なのだ。

三部構成のラストは、<仏の海>。京都の三十三間堂の千体千手観音像を撮影した作品だ。三十三間堂が建立されたのは、仏教の教えも途絶えて世界はもう終わりだという末法思想が蔓延った平安時代末期。千年も昔の人々が救いを求めたように、やはり現代人にとっての救いのヒントもここにあることを示唆している。本展のここまでの構成ではさんざん世界は終りだと落とされてきた。でも最後の最後に救いがあるところが憎い。やっぱりアートには救いがあって欲しい。

本展覧会をすごく乱暴にまとめると、「欲」にまみれた現代社会に警鐘を鳴らし、「欲」を煩悩とする仏教的思想に未来のヒントがあるということだと思う。
そして三部という緻密に計算された構成であるからこそ、その壮大なテーマをより切実に伝えることができるのだ。