ビッグコミックオリジナルがすしにまつわる漫画を特別編集した漫画雑誌「すし増刊」です。

巻頭に掲載された杉田明氏の漫画「JIRO~すきやばし次郎物語~掌の調べ」は、読み応えがありました。京橋の与志乃から独立するあたりの不義理のシーンといった必ずしもキレイ事ばかりでない世界もきちんと描かれていて、単なる小野二郎讃歌にだけなっていないのが良いですね。

育てた弟子が、師匠を裏切って独立するという物語は、現代社会のみならず、大昔の神話へと遡っても認めることができます。
ギリシャ悲劇として有名な「オイディプス王」は、父殺しが重要なテーマですが、こうした物語の骨格は時代を超え、現代社会でも表出する普遍のテーマではないでしょうか。

すきやばし次郎の独立劇に、オイディプス王の物語が重ねてみえてしまうのは、私だけでないでしょう。

「小野二郎のにぎりには、哀しみがある」と、かつて表現した人がいました。その時はずいぶんキザなことを言うなと思いましたが、口の中でネタとともにしゃりがハラりとほどけるその感覚が、儚くも切なかったり、小野二郎氏の鮨を食べること自体がいろんな意味で希少なわけですから、そういう思いもあって哀しみのようなものを感じるというのはなんだかわかる気もするなと思っていました。
しかし、今になって強く思うのは、そうした表面的な感覚であったりとか、希少性とかいった短絡的なものではなく、「オイディプス王」の物語にみる悲劇性をそのにぎりが宿命的に孕んでいるのではないかということです。その哀しみの根源は、人類が古代から直面してきたもっと深く切実なものであると思うのです。

そう、「小野二郎のにぎりは悲劇である」。

古代ギリシャから現代の数寄屋橋へ。すきやばし次郎の鮨は、普遍なドラマなのです。
そしてその物語はまたなんらかの形をもってまた次の時代へと継承されていくのだと思います。