ゴーストライター騒動の佐村河内さんのドキュメンタリー映画「FAKE」を渋谷ユーロスペースで観てきました。

つい先日のブラーに続き、期せずしてドキュメンタリー2連発となりました。しかも両方がミュージシャンです。(語弊はあるかもですが)

今回ぼくがこの作品を通して考えたのは、ドキュメンタリーを映画にすることの意味についてでした。

ドキュメンタリーとは、事実をそのまま伝えることではなくて、作者の視点で編集することだということを、監督自ら言われていました。なるほど、だとするならば視点のないドキュメンタリーは、もはやドキュメンタリーではなく、記録映像ということになります。

この「FAKE」はもちろん記録映像ではありません。監督の視点で編集された映像作品です。
そういう意味でこの映画を捉えると、「この映画は愛の物語だ」という人がいたり、「この映画はメディア盲信社会への警鐘だ」という人がいるのもうなずけます。

ぼくは、「ドキュメンタリーの意味を世に示す」というのが監督のチャレンジであったように思います。

ドキュメンタリーは作り物である。

ポスターからしてそれが見てとれます。「ドキュメンタリー」 by 森達也。「出演」 by 佐村河内守 と宣言していますから。出演って・・・演じちゃってるってことですもんね。

それから「衝撃のラスト12分」は、監督の靴下が有名なやらせ映画へのオマージュであると映画評論家の町山さんがほのめかされていました。

真実が他者の視点によっていかようにも編集される。それはドキュメンタリー映画の世界だけでなく、現実の世界だってそうだと思うのです。

つまり自分が生きているこの世界は、自分の視点によってすでに編集されているのだと。他者ですら自分の視点によって編集された存在なのだと。

ぼくが生きているこの世界は、ぼくの世界である。
他者の存在も含めてそのすべてが、ぼくの世界である。

そう強く思わされた作品でした。